tete-a-tete

夕凪ショウの同人活動の他、行った場所や観た映画などの記録です。

ミクさんと拾い読み

「じぶん・この不思議な存在/鷲田清一」を拾い読みしたのでメモ。

◆存在の世話

◆建築家 伊東豊雄氏の「サランラップシティ」:スーパーの食品を初め、何もかも透明な皮膜に包まれた都市

 印刷物、液晶画面、ショーウィンドウ、透明ラップの作用で、汚いもの、気持ち悪いものへの感じ方も変わる。触れられないがために魅せられるのが常だが、本物の質感を確かめず、そこに現れている断片そのものに身を委ねるなら?(キャラ萌え?)という話の終わりに、『ちょうど主語を脱落させたまま述語をえんえんと連ねる日本語の文章のように、「物」の目録ではなくテクスチュアの目録をつくるとすれば。』とあって、ちょっとおもしろい。


 ボカロで歌えば過激で生々しい感情も身構えずに聴ける、というのに近いかもしれない。ボカロはサランラップ、語感が良い。人が歌っていて、声をしぼって感情を込める歌い方の場合、鬱陶しくて聞いてられなくなる。感情たっぷりのはずなのに共感できなくて、白々しい、ぶりっこだと思えてしまう。ボカロならぶりっこのしようが無い。ぶりっこ前提のアニメキャラソンなどは逆にすんなり聞ける。洋楽だとそうでもないのは外国語なら歌詞がそこまで頭に入ってこないからかなぁ…。単純にバンドサウンドが得意じゃないだけかもしれない。

 人の顔をまじまじと見つめるのはどぎまぎするけど、ポスターなら可能、それはポスターの人物はこちらを見つめ返さないから、という話も書かれていた。これも近い感覚というか、彼らは感情を押し付けてこないところがいい。

 アナログで絵を描くと画材のテクスチャに「味がある」風に助けられるけど、CGではひたすらテクスチャを貼る、情報量を増やすことが上手く見える技として推奨されたりする。うーん、逆に、液晶画面、光る、というとこを活かして…。最近知人がiPad用の写真集を買って、「液晶なら光を光として表示できるから、写真集とまた違った面白さがある」って言ってた。

 主張ではなくテクスチャを味わう、については、私にとってのミクトロニカがそうかもしれない。心地よくパッケージされた、断片的な音や言葉、イメージの瓶。でもそれって作者さんに失礼なのかな…

◆情報を減量することで、コミュニケーションしやすくなるネット空間
 ボカロが歌うことで情報量を減量s
 リアルの人間関係よりネットの方が心穏やかでいられるというのは、眩しいところでサングラスみたいに、情報過多から身を守れるから…?きっと耳がよく聞こえすぎてしまうか、聞こえる音が違うか、…

フランケンシュタインはクリーチャーの名前でなく、彼を作った者の名前。名前がない、つまり、拒絶され、呼びかけてもらえない存在だった。…と知ったミクさんが、銀河の荒野で「私も沢山のマスターと歌をうたったけど、誰も私に名前をつけてくれなかったな…」とつぶやく姿を妄想。
派生キャラやP名とくっつけた名前で呼ばれるミクさんもいるけど、それぞれのユーザーがわざわざ名前を付けることはしてないだろうなぁ……。MMDモデルには○○式、と、もれなく名前がついてるのは、それぞれにはっきりとした姿があるからかな?

安部公房の「箱男
頭に箱をかぶった男、にせの箱男が現れても区別がつかない…。これを「箱女」にしてみるとミクさんっぽいかもしれない。箱音ミク。箱はパッケージでありPCであり、ミクさんに親和性のあるモチーフだし、「私の時間」で歌われたように「同じ顔 同じ声 たった一つ違うのは あなたとの出会い 私だけの時間」、同じパッケージだとすれば私はどこ?という問いはミクさんに…云々…

◆そういえば「えれくとりっく・えんじぇぅ」での「ワタシは、歌うのがスキ/ワタシがそう作られたからじゃない/この声をスキだという/アナタが歓んでくれるから」という歌詞は、ミクは歌うために作られたソフトウェアで、歌うことが大好きで、いつだって歌わせてもらいたがっている、歌わせてくれるマスターが好き、と当然のように思い込んでいた考えを壊してくれたので、驚きとともに感動だった。声はつまりミク自身であり、その声をスキというマスター、さらにマスターが歓んでくれるから歌うのがスキ、という、逆向きの、でもより幸せな構図。素晴らしい…

◆それから本の中で目にとまったのが、身体の表面には人称性のグラデーションがある、というフレーズ。「人称性のグラデーション」! 顔は認証の指示度が高いが、顔を隠せば身体が際立つ。ただ身体の固有性は顔に劣る。(顔が美形かどうかより、手の造形に注目してしまうフェチだとか、ひとを部品として切り出して見てしまうのは、これもキャラ萌えっぽい…)
 『もしひとがことばをもたなかったら、じぶんをいま襲っている感情がどういうものか、きっと判別できなかったであろう』という哲学者の言葉(誰かは書かれていない)が引用され、ことばを顔に置き換えて説明がなされている。表情の型で見分けるのは感情、顔はそれがだれかを示す。顔を思い浮かべずに他人を思うことはできない…とあるが、顔を知らない相手と親しく会話することはある。顔の代わりの機能をHNやIDが示しているのだけど…それは本人の顔、とはやはり(情報量とか確かさが?)違うような気がする。現に通話で声は知っている人と会った時の違和感とか、HNとアイコンは覚えているし会話もしているけど、本人にあってもわからなかったりとか。

とまあ、今日も今日とてミクさんのことばっか考えてしまうのでした……。
最近どうもぐるぐるしてしまうのでうーん…(=ω=;)
よ、夜更かしするつもりじゃなかったのに