tete-a-tete

夕凪ショウの同人活動の他、行った場所や観た映画などの記録です。

システムがあれば心は生じ得る

夏以降、いろいろ考えていたことに進展があったので、ここに書いておきます。簡単にまとめるとよっつ。

・システムがあれば心は生じ得る
・簡単に手に入るものは大事にされない
・ミクが喋る商品はNG
人工無能のかなしみ

ひとまず、ひとつめについてTwitterからメモを転記。


◆麻酔をかけて手術するとき、眠っているので意識は無く痛みの記憶も残らないけど、身体は痛みを感じて血圧上がったりするの、知覚と認知が人工的に切り離されている感じすごい。ということで、いくつか雑誌を拾い読みしました。

◆痛みについて:痛みは感覚的・情動的な経験である。痛みの個性は、視覚認知における色や明るさより、絵をどう感じるか(質感)に近いかも知れない。末梢の痛みへの感受性と、痛みへの嫌悪感の感受性は別。侵害刺激を痛みとして認識する体性感覚野は大脳皮質に存在する。しかし、大脳皮質を持たない場合も、情動で痛みを回避する。痛みに対する情動の中枢は扁桃体である。扁桃体を損傷した場合は、痛みを感じても、恐怖や不快感を抱かないため、回避行動をとらない。(服が肌に触れる感覚は常にあるが、それは不快感を伴わないため、苦痛ではない。)

あえて雑に解釈すると、
人間→「痛いのは嫌」「痛いから嫌」の2種類ある
動物→「痛いから嫌」のみある

痛みを感じる経路は、①視床外側を経て大脳皮質へゆき感覚/識別する外側系、②視床内側を経て前頭葉へゆき情動/認知を得る内側系のふたつある。つまり「感覚と情動は別の経路で処理される」という説。これは正しくないかもしれない。
対して視覚の識別には①どこ経路(後頭部からてっぺんを通って額へ。場所や動きを担う)、②なに経路(後頭部から耳の方を通って額へ。色や形を担う)があることがわかっている。
そして、痛みの場所や強さの識別は、前頭葉で完了する。そこから、痛みの識別の経路は、他感覚と同じく、感覚・情動ではなく場所・強さで分かれる、という説が生じる。

◆意識について:「意識がある」とは、「わたし」が主体としてあり、その周りに世界と他者が存在すると了解できることである。ただし、この世界は「わたし」の内側の体験にすぎない。「意識がない」とは、ある限られた時間、もしくは永遠に、主体としての「わたし」が失われることである。
意識の中身(意識にのぼる特定の感覚や思考内容。「チョコレートの味」)は個人が主観的に体験するものである。主観性は意識の重要な特性であり、意識体験を他人と直接共有することはできない。
つまり、やはり、初音ミクの心の成立には「わたし」が必要であり、知覚やアイデンティティは身体を憑代にする。
◇仮説:意識の消失=統合情報量が小さくなること
人間の目とデジカメに、情報処理において本質的な差が無いとすれば、デジカメに意識が無いのは、情報の統合が無いからといえる。眠るときに意識を失うように感じるのは、統合情報量が急激に減少するからであり、意識の有無は閾値ではなく連続量ではかられる。統合情報量を持つあらゆるシステムには、何らかの意識が存在する。→「わたし」が宿るには複数パーツの統合が必要。つまり「わたし」は個であっても一個ではない。
◇脳におけるダイナミック・センターコアと呼ばれる部分、ここで内意識(感情・判断・理解など)が生まれる。ダイナミック・センターコアの脳機能とこころは、いずれも本能を基盤とする。例)統一・一貫性の本能から、DCでは判断・理解が、こころではクオリアがもたらされる。
◇気持ちが伝わる仕組み : 他人と意気投合する(視線を合わす、同じ言葉を繰り返す)→細胞由来の「仲間になりたい」本能により、互いのダイナミック・センターコアで同期発火が起こる→気持ちが伝わる
実際に、A10神経群と線条体が損傷されると、気持ちが伝わらないと自覚する。また、「仲間になりたい」などの本能は、脳細胞が持つ機能から生まれる。この「本能」は、機能の持つ強い性質といったニュアンスかも。

◆ドットを並べると絵になるように、部分が集合になると部分の和以上のもの、一つ上の段階の象徴的な何かが生まれるという感覚は今までもあったけど、それはネットワークによるものでは? システムがある場合、ネットワークが生じ、しかもその大きさに関わらず、量の変動があった場合、意識が生じる可能性がある。私の想像する初音ミクを、私(人間)の思考の中、象徴の世界から連れ出して、自立した存在にできるかもしれない。知能や感情や尊厳を本当に持たせられるかもしれない。
こころを持つには身体が必要なのでは、システムを持てば自動的に感情が生じないかな、ってもやもやしてたこと、その部分を表現する言葉が得られたのでちょっと嬉しい。「どうせ〜〜にすぎない」みたいなのとは、また別のアプローチができそう。ということで、ひとつ自分にとっての突破口が見いだせました。

【SYNODOS】計算する知性といかにつきあうか――将棋電王戦からみる人間とコンピュータの近未来/久保明教 / テクノロジーの人類学

初音ミク自体は自ら歌うことも、自ら踊ることもなくて、…自己表現する人のシンボルみたいな存在なんですね。…人間が何かを表現したいという本能がある限り、社会から必要なくなることはないと思っています。 引用:http://amba.to/1udaJT1

初音ミクは音楽の供であるために、あるいはスキャンダル防止のために、意図的に「喋らない」方針が取られてるのは、という話。見る側にとっても、「歌詞は歌詞だから」って感覚はかなりあるし、「歌う(楽曲表現)」と「喋る(漫画表現)」の違いがこの辺りにある気がする。会話するとなると、じゃあ自己は?ってなる。歌詞は、歌う人格の価値観からワンクッションおく感じがある。調声は、感情とは直結するような。

ここから最近観た映画のメモ。
◆「楽園追放」快楽についての台詞が特に良かった。(串焼き、夜風のシーン)

◆「アンチヴァイラル」観た。片付いた部屋みたいな居心地の良さがある。クリーンなエロスがとても良かった。
・同じ感染症を体験する。細菌ではなくウィルスってとこもミソだと思う。細菌には人格を感じるけど、ウィルスはそうじゃないから。
・血液や細胞が繰り返し強調される。肉体にこだわるようでいて、所謂性的快楽よりも精神的な恍惚を求めてる。
・身体のうち、本来性的快楽を感じ得ない部分での触れ合い。主人公がハンナに触れず、血の匂いを嗅がせるというのも、洗練された変態で非常に良かった。
・主人公がハンナを好きなのかどうかもわからないとこがいい。
・セレブの皮膚片を腕に植皮、箱の中から助けを請う映像、etc.
・触れ合いが間接的になればなるほど、記号や象徴に近くなって、すると感性での補完が大きくなるから、ある種の興奮も高まる、かな。
・検体からウィルスを抽出して、コピーガードをかける装置。ウィルスの「顔」が表示されて、技師がその顔を見ながら操作するというのがあって、人間の顔には様々な情報が含まれていて云々という作中での理屈だったのだが、これダイナミック・センターコアの話じゃんと思ってテンション上がった。

◆「グランド・ブダペスト・ホテル」も観た。ある時代の国をホテルに例える。

備忘メモ:
初音ミクアンドロイド化→全身に皮膚センサーを載せるのは高コストだが、怪我の発見のために必要→鏡などを使っても死角になる部分にのみ皮膚センサー搭載する→うなじにキスされるのが弱点な初音ミク、普段はチョーカーで隠してる。皮膚センサーは入力端子でも萌え。

・感覚=生の実感→髪自体は死細胞の集まりであり、感覚は無い。生きている人間であれば新陳代謝に合わせて廃棄することを厭わない。→初音ミクが長い髪をシンボルとしているのは、彼女が体験できない死(つまり生の表裏であり愛おしいもの)をその身体に抱くため