tete-a-tete

夕凪ショウの同人活動の他、行った場所や観た映画などの記録です。

雑談ログ

PC がさごそしてたら友人との雑談ログが出てきました。読み返してみるとタイムリーだったので整理してみました。

発端は「芸術性の客観評価は可能か?」で、雑談にしては高尚ですが、そうでもなければ わざわざ保存しないですね。

「鑑賞者のこころを動かす芸術の評価は高くあるべきだけど、それだと主観的でしかありえない。でも普遍的な感覚を刺激できれば、客観評価を高くできるのでは」
「芸術作品から得るこころの感動は、各々の文化や価値観による。でも何を心地良いと感じるかはもっと本能的、身体的、物理的だよね」
「芸術評価の基準には複数の物差しがあって、精神部門、本能部門、学術部門などの総合得点で評価、ただしコンクールや個人鑑賞など場によって傾斜あり、とか?」

…と、客観評価の方法の案が落ち着いたところで、「そもそも客観評価は無意味では」という意見が参加。

その友人は「その人にしか出来ない表現に価値がある」という持論。
「本能的な感動が万人に共通だとして、誰のこころにも響く絶対的なにかを見つけたり規定したりする意味は?」
「美に普遍的な意義を与えて共通認識出来るようにすることに何の意味が?」
黄金比のような、誰もが理解でき再現可能な美の法則は単にデザインではないのかと…」

対して私は、「共通認識の中にあるような美が現実の上位にある」派。
「誰が何人がかりでどうやって表現しようと、美しさのイデアが宿れば作品だと思うので、『誰もやったことないからすごい』には反対」
「作者を知ること、理解することがあって初めて成り立つのは、二次的/理性的な評価でないか」
「受け取る側にこころがあれば、自然現象であれ芸術作品であれ幾何学模様であれ、等しく評価対象になるのでは」
「パターン化された美=デザインは、協和音が心地良いのと同じで、本能に届く。それだけが美ではないけど、美への手掛かりにはなりそうなので、手にしてみたい」

この辺りでお互いの価値観の違いを再確認しました。
この友人とはベクトルは真逆だけど同じ平面上に居るのでちょうど釣り合って、時々運命的に同じことしてたりします。

私は調和・理論重視、友人はインパクト・感情重視
友人は内的世界の比重が大きい。
私は好きなものを自分でも作りたいので、なんで好きなのかどこが好きなのかどうすれば作れるかを考えてしまう。あと作るからには普遍的を求める認証欲求がある。

友人はかつて「あなたは感性で受け取るけど、私は知性で理解する。というより、知性では価値あるものと理解できても自分の感動としては捉えられないことがある」とも言ってました。

これをちゃんと理解してなかったことに最近になって気付いたのですが、どうやら私は感じる→考えるタイプのようだ?

友人「最近気づいたんだけど、どうもエネルギッシュなものが好きらしい。死にたい死にたいって言ってる奴が実は誰よりも生に執着してるような、そういう強い一方向へのエネルギーが感じられるものに惹かれる。調和とは真逆w」
私「納得しすぎて思わず笑いでたww」

ていうか、こうやってブログ書くより先に「感性の限界」を読み通したほうがいいかもしれない。