tete-a-tete

夕凪ショウの同人活動の他、行った場所や観た映画などの記録です。

「解剖学教室へようこそ」を読みました

養老孟司さんの「解剖学教室へようこそ」、簡潔明瞭で読みやすい本でした。所要時間は2時間程で、やさしい語り口もあって講義をひとつ受けたような感覚です。
それに関してぽやぽや考えた事をメモ。本の内容と私の考えとまぜこぜです、あしからず。

Q.まずなぜ解剖をするのか。A.人は切りたがるものだから。
人は目の前のものを切りたがる。それはつまり自然であり滑らかに繋がったアナログのものを、部分に分けて名前を付けてバラバラにすること。
例えばヒトの身体の骨。頭の骨や腕の骨、ちょっとしたふくらみや溝にもひとつひとつ名前が付いている。しかもその境目は明瞭ではない。血管もそう、一本の管なのに場所によって名前が違う。これは色の名前や雨の名前でも同じ。人が認識した印として名前が付けられている。セカイカメラで街の風景を見たら沢山の旗が立ってました、みたいな(?)
逆に名前のあるものは存在することになる。かくいう私も「夕凪」とかいうHNを自分に与えて「夕凪」という存在を作りだしている訳です(・ω・)<名前にはこだわりたくなるよね!
つまり、人は言葉で世界を認識しているということ。

また西洋の考え方は世界を単位というツブで階段状に区切るということ。
個体―器官系―器官―組織―細胞―細胞内小器官―分子―原子―素粒子―…
物体だけでなく、生物や人種の階級もそう。これはアルファベットという粒でできた言葉を使う人たちの感覚。漢字はまた違って、表音文字でなく表意文字。言葉はバラバラの粒には分かれない。必ずしもより小さな単位を用いてそのものを捉えているのではない。
なめらかな自然/アナログのものを、階段状の人工/デジタルに区切るという方法に、量子論を思い出した。量子の世界では階段の段から段へとジャンプが起こり、その間は存在しないことになっているとかどうとかいう。
さて私は何かにつけ自分に馴染みのある絵を描くという行為に引き寄せて考えてしまうのですが…
絵を描くという行為は言葉は用いず、世界をバラバラにしない。逆に点や線を重ねて世界を繋いでいく行為なのではないかと思い当たりました。そういえば美術の先生はデッサンを教える際に「こことここを仲良くさせるんだよ」というような表現をしていた。
音楽とか文芸がどうなんだろ。音楽は一定の方向に進むから、一つの画面上をうろうろする絵とは違う気がする。

それから心と身体について。
身体は心の容器であって、二つは別々のもののように思える。でも私たちの身体には隅々まで神経が張り巡らされていて、それがみな脳という中枢へ向かい、集まり、心を宿す。
となると身体は心で、私たちはむき出しの感覚神経の塊で、その上に服を被せて生活してるのかなとか。

過去のツイートからメモ
自分の心の形と身体の形は違うと思う。というか、もう少し手の指がすらっと綺麗ならなーとか、自分の身体に窮屈さや煩わしさを感じる。身体っていう張りぼてに私って意識が入ってる感覚。よく「身体を奪われても心はあなたのものにならないわ」とかいう台詞があるけど、どうなんだろ。
posted at 02:06:43
好意を抱いた相手(人間もだけど、植物や風景でも)には触れたくなるし、触れてもらいたくなる。好意を抱くのは心だけど、実体を持たない心が外界と触れ合えるのは身体というインターフェースを通してのみ。でも刺激が感覚器官から神経を通って脳へ伝達されることを思うと、それは直接心に触れている?
posted at 02:18:13

人は自分に属するものも自分の身体として捉えるとも書かれていた。自分の車を蹴られたら怒るだろうって。確かにそう。となるとまた自分の境界も溶けてきた。

最後に、身体と心が別々のものではなくひとつのものなんだな、と思うと腑に落ちたこと。
身体のバランスは崩れてるけど悩みもないし心は元気だから大丈夫!っていうのは違うんだなって。心を大事にするように、身体も大事にするものなんだなって。で、同じように身の回りの物も者も大事にするものなんだなって。

うーん、ねむい。

おまけ、トラウマ注意