tete-a-tete

夕凪ショウの同人活動の他、行った場所や観た映画などの記録です。

福岡古楽音楽祭(日曜日)

◆翌朝、まずは宗像大社の神宝館へ。大きなパネルの岩の写真と、かな混じりの書が特に良かったです。
◆写真では、岩石が二つ並んだV字の谷間と、その左手前に位置する木の枝が右側へ抜ける、画面の中で誘導される視線の流れが、絶妙なバランスで循環していました。
それぞれの表面をなぞるように見て、角度の変化を味わうのがすごく楽しくて、しばらくその前にいました。
磯を泳いで、大きな岩の合間の暗がりを覗くのに似た感覚というか。
水中では岩の姿がかなりの部分見えますが、写真は森の中でしたので、土より下の部分は隠されていました。
◆もうひとつ、書ですが、こちらも線の流れを目で追うのが楽しかったです。
かな文字を書き順の通りたどって緩急を感じるのは、音楽に近い気がします。
それから「女」の字、これは円の中での動きの永久機関感すごいです。
お茶碗の底面を拭くときは茶巾を持った手で「い」と「り」を書くように、と習いましたが、「女」でも淵は拭けそうです。
宗像大社と全然関係ない感想書いてしまった。写真貼ります。
屋根が銅葺きだと、雨樋の下がミクさん色になるんですね!

はい。次に宮地嶽神社へ。

奥の宮、不動神社が洞窟の中にあります。その外にあった灯篭…あまり見かけない動物。装飾や狛犬にアジアの雰囲気を感じます。

           ◆◆◆
◆日曜日の午後は、某方のお宅にお邪魔しました。誰かの発案によりここで演奏が行われました。
「やぎさんへの手紙」という曲を、12弦ギターとガンバ、ネットで繋いでキーボードでセッションしようという無茶振りでした。
無茶振りというか、発案した本人は無知のあまり無茶だと思ってなかったんですね。すみませんでした。
演奏者さんは勿論ですが、環境の整備・運営等もお願いして、しかも美味しい食べ物も出てくるっていう、各々方本当にすみませんでした。最高でした。
◆さて、繊細なガンバと、物腰柔らかなギターで、やぎさんの演奏がなされたのですが、やっぱり美しいです、あの曲。 内省的で、少女らしさもあり、ナイーブなようなストイックなような、繊細で内気かと思えばしなやかな強さを持った……うーむ。素晴らしいです。
同時に、アイデアの部分から製作を覗いていた曲でしたので、ここまできたのかという感慨もありました。 楽譜と合わせて発表した「ゆうびんミクさん」の舞台はスイスのイメージなのですが、ガンバはあの山間に響く音だし、ギターのなんとなく懐かしくてひっかかる感じ、干し草のベッドですね(悪口じゃないです)
◆やぎさんの後はギター弾き語りを聴かせてもらいました。
それまでニコ動にうpされた曲とTwitterでだけ知っていて、その方と顔を合わせて話をして、それから弾き語りを聴く、というのが不思議な感じでした。その相手を知っていく部分と順番がバラバラというか…。その人の人となりを少しだけ知ってから生で演奏を聴く、というのは、なかなか情報量が多いです。
◆それからミクさんの歌にヴィオラ・ダ・ガンバの伴奏を合わせてもらいました。おそらくこれは世界初の試みと思われます。メトロノーム奏法させることになるのですが、理解のある方で良かったです。
音源の公開は許可されておりますので、そのうちうpされるかもしれません!お楽しみに…。

いただいた悪魔的ケーキ( ̄▽ ̄)ノ
わがままきいていただいて、皆様 ありがとうございましたm(_ _)m
           ◆◆◆
ご褒美な午後にいっぱいいっぱいになりつつ、コンサート会場へ移動しました。

この晩のコンサートでは、一言でいうと、演奏に圧倒されて、発狂しました。酔ってたんですかね、ケーキで。
友人が「音楽は嫌い、自分の制御できない感動をもたらすから」と言っていたことがあって、その時は「なにいってんだw 音楽からもたらされる感覚を楽しむんじゃないの?」って思ってたのですが、やっと理解しました。
「時計仕掛けのオレンジ」で、主人公が目を閉じられないよう拘束されて映画館で残虐映像を見せ続けられるシーン、あんな心境でした( ̄▽ ̄)
           ◆◆◆
前日のコンサートでは「わー素敵だなー。この曲はこんな性格かなー」って楽しんでたのですが、日曜日は辛かったです。 古楽の良さを少しでも体験できればなー、なんて考えは甘かったです。ヴィーラントさんあんな萌えキャラだったのに!どういうことですか!
今まで持ってた「美しい」の感覚を飛び越えられて、そんなことされると今まで何だったんだと、同時に今後どうしていいのかわかんないです。
初めは言葉を探しながら聴いてましたが、途中からなんかもう絶望でした。この曲はどうこう、までは解析不能でした。 演奏聴きながら、Photoshopが落ちるとき、ソフトウェアの立場なら悲しいのかな、とか考えてました。
美術館で絵を見るなら、自分の好きな絵をゆっくり見たり、キツいものからは目を背けたりできます。 一度ちらっと見て、そのまま通り過ぎて、また帰ってきてじっくり見たり。 でもコンサートでそれは出来なくて、ただ鋭利な音が奏でられてはその場で消えていくのをひたすら目の当たりにさせられてました。 何度も泣きそうになって、聴くに耐えなくて、途中で席を立って生活感のある雑踏の中に逃げ出したかったです。
「美しい」と「綺麗」は違う意味で使っているのですが、今回は美しい音でした。 (汚い部屋を掃除して綺麗にはできても、美しいかどうかはまた別です。整理整頓=美ではないのは、音楽には推進力をもたらす不協和音も必要、というのと似てるかも)
音はもちろん色も形もなくて、音の響く空間全体にその効力をもたらしてました。 そもそも性質の違うものだから安易に比べるのは野暮ですが、美術が敵わない部分を音楽が軽々と越えてました。
ショックだったのは、なぜこの衝撃を絵ではなく音楽で受けてしまったのかってことです。かなしい。
そして、こんなにも感銘を受けているのに、出来ることは最後に手を叩くだけって、シンバルを持った猿のおもちゃかよと。言葉を奪われたようで情けないです。
           ◆◆◆
音楽は瞬間の芸術だと言われますが、そのことを改めて思いました。
試合や演奏会を前にして練習に励む友人と、原稿締め切り前の私で、お互い大変だねって労い合うことがあるのですが、それぞれ試験とレポート的な違いがありますね。
時間という要素がからんでくることに対して、話飛びますが、昨日「スローターハウス5」という本を読み終えたのですが、
作中に登場する宇宙人は四次元的な感覚を持ってるというか、彼らにとって宇宙は始まりから終わりまで全て明白で固定していて、人間のように時間が流れるものだとは思ってないです。
そうなると音楽ってどう捉えられるのかなと。おそらくこの答えとして、作中で一度だけ登場する彼らの星の文学があって、以下に引用しますが、楽譜のことを言ってるようにも思えます。
で、結局これ「瞬間」だって言ってるんですよね、ああちょっと何言ってるかわかんなくなってきました。
その星の本は『記号のかたまりが点々とならび、そのあいだは星のマークで隔てられて』おり、
曰く『記号のかたまりは、それぞれやむにやまれぬ簡潔なメッセージなのだ――それぞれに事態なり情景なりが描かれている。われわれトラルファマドール星人は、それをつぎからつぎというふうでなく、いっぺんに読む。メッセージはすべて作者によって入念に選びぬかれたものだが、それぞれのあいだには、べつにこれといった関係はない。ただそれらをいっぺんに読むと、驚きにみちた、美しく底深い人生のイメージがうかびあがるのだ。始まりもなければ、中間も、終りもないし、サスペンスも、教訓も、原因も、結果もない。われわれがこうした本を愛するのは、多くのすばらしい瞬間の深みをそこで一度にながめることができるからだ』(K・ヴォネガット・Jr.著「スローターハウス5早川書房 より引用)
書かれているのは美しさは意味じゃないってことですが、これを書いている言葉は意味そのものなので、意味を使って美しさの感覚を人の中に呼び起こすことは可能なのでしょうか(??)
           ◆◆◆

コンサートの後のビールです。この写真見返すたびにあぁービール飲みてぇーってなります。あぁービール飲みてぇー