■「レトリック感覚」佐藤 信夫 (著)を読んでいます。
最近、ボカロ曲の紹介文を書く機会がありました。1曲につき200文字前後の短い文章でしたが、慣れないせいか案外苦労しました(^^; 出来上がった文章を読んだ方によると「夕凪さんは使う比喩が特徴的」だそうで、その流れでこの本を教えてもらいました。まだ二章しか読んでないのですが、なかなか面白いのでメモしておきます。レトリック身に付けたいな。
・は本に書いてあったこと、○は私が思ったこと。
■序章
・文章には地色と凹凸がある。平面である平常文にレトリックを用いると起伏が生じる。
・古代のレトリックは①説得する表現の技術 ②芸術的表現の技術であり、本書では③発見的認識の造形を加える。
○説得と芸術の二点を含むのが、実用性と美しさを兼ね備えた「機能美」の考えに似てる。レトリックはデザイン?
・古代のレトリックは、そもそもは常識的な文法規則から違犯する表現を求めていたが、研究が進み体系化されるうちにミイラ取りがミイラになった。
・ミイラは明治初期の日本に紹介される。レトリックに対して、様々な訳語が与えられる。ex)修辞学、文辞学、華文学、美辞学
・古代ローマでのレトリックは①発想 invention ②配置 arrangement ③修辞 style ④記憶 memory ⑤発表 action の要素に分けられた。今後「修辞」は③の狭義として用いる。思想という無形の中身、透明な身体に言葉という衣装を着せるのが修辞。言葉は目に見えない思想に外形を与える衣服。(言葉という外形抜きの中身だけというものが果たして成立するのか?)
○相手の心に訴えるように表現するのがレトリックの目標。言葉を使うには相手が居ることが前提?と思ったけど、相手が自分でも構わない。
○「言葉は世界を表現する網だ」っていつか習ったけど、そこでは言葉は不十分なものだと否定的に扱われていた。いくらツイートしても現実は言葉の網の目からこぼれ落ちてしまうと。修辞では言葉は網ではなく衣服と言っているが、どちらも織物という奇妙な一致。パターンもゆかりのある言葉だし。
・効果的な表現のための公式(パターン)=ことばのあや figure と本書では呼ぶ。
・西洋でも日本でも過去の遺物とされたレトリックの再興に著者が期待する副産物は、レトリックの応用。レトリックははっきりした文法規則を持たない言語以外の記号表現の世界では、文法に変わるべき暗黙の規則体系として働く。
○文章を書き出す→整えて良くなる→修飾してやりすぎるとき、ある一点を超えると逆にばかっぽくなる。地味で簡素な服に少し変化をつけるとおしゃれだけど、パリコレくらいやりすぎると現実離れしておかしくなってしまうのと同じ?
■一章:直喩 simile
・共通の言語表現の有無。体験が共有されないのは共通の言語表現が無いからなのか、共通の言語表現が無いのは体験が共有されないせいか?国語辞典には万人に共有された常識的な言葉、標準的なものの見方が収録されている。
○その組み合わせがカギ。予想外の組み合わせをして新しい物の見方を提示するのが詩人。予想外デス
・比喩とは、XとYの間に感情上の一致を見出すこと
・直喩は単に未知のXを既知のY(共通のイメージ)になぞらえたものではない。
・文脈から想像のつくXと、読み手の知らないYの場合は、直喩は逆向きに読まれる。
○というかそもそも言葉自体大雑把なもので、読み手にはXもYも厳密にはわからない。
・似ているものに例えるのでなく、例えることで似ているとされる。直喩によって類似性が成立する。
・結局「XのようなY」に何を代入してもそれなりに成り立ってしまう。言葉のそういう不思議な可能性により、人々は遊ぶ
○小説を読むことは、言葉だけを通すことにより、一定期間作者の考え方でものを見ること。
○ぼかした表現が可能なのも言葉の特性ゆえ
・同じ→似てる←違う
似てる←違う:元々異なるものどうしに類似性を見出すのは普通の比喩
同じ→似てる:元々同じものを無理に二つに裂いて、その間に類似を見出そうとする。「いかにも」と強調する?皮肉にも聞こえる。
・どれほど似ているか=どれほど似ていないか
大きいという概念が成立するには逆に小さいものがなければならない。
・なんでもかんでも直喩という訳ではない。常識的な類似(黄色いレモン)はただの平常文。意外な類似性を提示してこそレトリックの直喩。発見的認識。
○「そのこころは」と、意外なものと同じと結びつけることで新しい発見があるからこそ面白いし遊びになる。
■わかるようでわからない例えをするとよく人から言われます。例えば、「面白いツイートをする人がいるが、その人はツイートする頻度が低いのでもどかしい」というのを「ペットボトルに麦茶を入れて凍らせて運動会に持っていった。喉が渇いたのになかなかそれが溶けなくて、ペットボトルを逆さまにして振って舌を伸ばす気分」って言った時とか。
■中学に入学した時の作文に「巨大な織物(伝統の例えのつもりだった)の一端を持たされたようで緊張した」と書いた。卒業する時の作文に「(思い出の一つ一つが輝いてることを星に例えて、それが連なって)天の川が見えます」と書いた。奇妙な一致。
■心臓を擬人化したりするのも、オヤジギャクいうのも同じなのでは。例えたり分類したりするのは、似てるものを探すこと。つぶに分ける考え方に支配されている(過去の日記参照)のとは逆。物事を見る単位を大きくしていくこと。例えは想像であって創造ではない。分類してまとめると意味付けができるので分かった気になれて楽しい。
■本に線を引いたり書き込んだりするのは嫌なのでノートにメモを取りながら読んだら、現国の読解問題の試験を受けてる気分だった。同じ意味の言葉を探したり、あれは読み解き方の訓練として有効だったのかも。
■一章の中で「ささやかなためらい」って言葉が出てきて、「ためらい」と「なめらか」は音と形が似てるけど意味が逆で面白いと思った。
■これを考えながら聞いていた歌にあった表現、「画面のしたはナキムシ」って素晴らしい。初めて聞いたときは「あ、液晶画面のことか」って感動した。画面と仮面って音が似てるし、仮面を被ってる人が実は心の中で泣いてるともイメージできる。「液晶そこをどけ」って表現があるけど、隔てるものとしての水って、大航海時代の海とか、三途の川も連想できる。それから画面=機械を泣き虫としたところに愛おしい気持ちを感じるのは、パラパラ漫画で絵が動いた時、コマ撮りアニメで自分の作った人形が動いた時、初音ミクが歌った時、生命が宿った感動と同じだ。アニミズムだ。
ささくれさんの作詞素敵だなー。「幼い気球」とか、言葉の取合せが詩人。