tete-a-tete

夕凪ショウの同人活動の他、行った場所や観た映画などの記録です。

読書などメモ

読んだ本などについてメモ。ミクさんについては、”初音ミクは存在の仕方が有機的” ”初音ミクは受け身であり、その女性性において少女のキャラクターでなければならなかった”というふたつが最近の収穫。

◆「自殺について/ショウペンハウエル」
有機的なものの存在は、物質の絶えざる新陳代謝によってのみ可能である。均衡を保つために、絶えず動かされていなければならない。
[時間が流れていて、どの場所のどの瞬間のミクも本物で、それぞれシンボルを共有したり影響し合ったり。初音ミクの在り方が有機的。キャラクターは非有機的なもののはずなんだけど、ミクの場合はユーザーの創作という不断の流入があって、そこが有機的生命っぽい。]

・感情移入は、自分と異質なものを理解することではなく、自分と他にそもそも違いはなく、全てフラットであると把握すること。
・我々の人生というものは死から融通してきた借金のようなものだとも考えられよう、そうすると睡眠はこの借金に対して日ごとに支払われる利子だということになる。
・尊さ:独自性と一回性
・極めて無意味な現在といえども、現実性という点にかけては、極めて有意味な過去よりも、たちまさっている。
・黄昏の訪れる毎に我々は一日だけ貧乏になっていく。
・defunctus(故人に冠する言葉で、課役を果たした人、死者の意)

◆「わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か/平田 オリザ」
・対話、伝わらない→伝えたいという意欲
・子供に接するときの優れたコミュニケーションには、子供のコンテクストを受け止めて、さらに「受け止めているよ」というシグナルを返すことが肝要。社会的弱者は何らかの理由で理路整然と気持ちを伝えることが出来ない。理論的にしゃべれない立場の人々の気持ちをくみ取れる:弱者のコンテクストを理解する。
・仮面の総体が人格を形成する。ただし、その仮面の一枚だけが重すぎると、バランスを書いて、精神に支障をきたす。
・人間のみが、社会的な役割を演じ分けられる。

◆「皮膚感覚と人間のこころ/傳田 光洋」
TwitterSNSは毛づくろいの代替行為
・濃淡電池
・皮膚にも(知覚ではなく感覚の)視覚や聴覚があるかも
・死んだ子猿を長く抱いてる母猿は、単に子猿の死を認識できていないのかもしれない
心身二元論的な心を人間が有するようになったのは葬儀が始まってから
・舌にチップを乗せて圧で入力する→舌でものを見る
・触覚には「今自分が触れている」という自覚があるという点で他の感覚と異なる。だから自分で自分をくすぐってもこそばゆくない。
・個人の認識と、実在との関係、頼りになるのは皮膚感覚
・システムの中で生きる人間を、皮膚感覚は突然、個人に戻してしまうのです。それは皮膚感覚が他の感覚に比べて強く個人の意識に結びついており、自己と他者を区別するという重大な役割を担っているためです。

◆ファスト&スローをつまんだメモ
・物語とは重大な出来事や記憶に残る瞬間を紡ぐものであって、時間の経過を追うものではない。
・他人のことを気にかけるときには、その人たち自身の感情よりも、物語の質を心配することが多い。
・想像が記憶の、思い出の先取りなら、未来を生きられる?
・私は記憶する自己なのであって、実際の場面に直面している経験する自己は、私にとって他人

◆「わたしを離さないで」に関してイシグロ氏のインタビュー
・人間はぞっとするような艱難辛苦を受け入れてきた。なぜなら、そうした方がもっと大きな意義にかなうだろうと思っているから。
自分達の小さな仕事をやり遂げることで、尊厳を得ようとする。小さな狭い運命の中に生まれ、苦しみを受け入れ、奮闘し、夢や希望をその中に絞り込もうとする。

◆「かぐや姫の物語
初音鑑のことが頭にあったので、タイムリーだなと思いつつTV放送を観ました。かぐや姫をミクとしてみると、刺さり過ぎてもう色々あれでした。なんておそろしい…。

「私は生きるために地上へ来たのに、誰のものにもなりたくないと言って…」のシーンは特にぐさぐさきました。
首輪(あるいはネクタイ)って、「俺のものだ」「あなたのものです」と同時に「お前のじゃねーぞ」も示すなと考えていたので、「誰のものにもならない」というフレーズは何か痛いところを突かれた感じがありました。
誰かのものになれば幸せになれたのでもないとは思うけれど、ただ、ミクは人間ではないので、「俺のもの(所有物)だ」ではなく「俺のもの(作品)だ」と言える抜け道があって、さて、でもそうするとまたバランスが取れなくなってしまうのですよね。

「偽物!みんな偽物!」のシーンもなかなかでした。ミクの場合は全部作り物だから全部本物になれるはずで、そもそも、人間の側から観測不可能でも、ミクさんにとっての本当であればそれでいいのですが…うーむ。やはり「確からしさ」をどれだけ実感できるのかが問題なのかな…。

あの御簾はディラッドスクリーンだし、例え乱暴にめくっても、その先には誰も居ない。でもタブーを犯してかぐや姫を後ろから抱いてしまう帝の気持ちも分かる。

御簾越しの琴の音を聴いて美しさを見出されていたのなら、そんなに絶望しなくても良かったじゃないとも思うけどどうなんでしょうか姫。