tete-a-tete

夕凪ショウの同人活動の他、行った場所や観た映画などの記録です。

エル・グレコ展、宮永愛子展、恩師の個展

■まず午前中にエル・グレコ展に行ってきました。
初期の肖像画から始まり、聖人像、宗教画、祭壇画へと時系列順に並べられ、その進化がわかりやすい構成となっていました。
その中で個人的に好きだなと思ったのは「カマルドリ修道会の寓意」でした。薄暗い緑の円の中に幾何学的に並ぶ修道院の建物(?)がグレコっぽくない感じでした。こんなこと書くとグレコを好きな方に失礼かもしれませんが、あの劇的な描写は特に好きではないので、てろてろ歩きながらみていたのですが、この絵はいいな、と思いました。
素直な感想として、肖像画は顔色が悪いなぁ、その後の聖人像も色の取合せがぎこちないなぁ(なんとなく姿勢の悪い黄緑色とか。色に対して「姿勢の悪い」というのも変な表現ですが、生命力に欠け、いびつな印象でした)と思いました。そういう描き方なのか、保存状態に問題があったのか…? 後半に進むにつれ、ややしっかりとした印象に変わりました。ヴェネツィア、ローマでの修行を経て様々な画法を学び、消化したとあり、絵に骨が入り、合理性が増した感じがしました。展覧会の最後にはいかにもエル・グレコといったダイナミックな祭壇画がありました。一連の流れの後にこれを見ると、「ここまで辿り着いた」という感じでした。今ジョジョにハマってるので、脳内でズバァァァンという効果音が合成されて見えました。鳩光るし赤ん坊光るしすごい。
今でこそ「ふーん」と思って見てますが、見えないものを劇的に描き出す、というのが当時いかに斬新な画風だったか、について解説が添えられていて、確かにそうだなと思いました。あとどうでもいいことですが男性の手も女性の手もにゅるっとした感じで描かれていたので、グレコ本人の手もこんな手だったのかなと想像しました。
私自身はデッサンが確実であまり崩されておらず、地味だけど安定感がある、職人気質な絵が好きなので、グレコはあんまりなのかもしれません。グレコの絵には濁流のようなエネルギーがありました。でも黒が多いので熱いというより冬の海の嵐みたいなエネルギーでした。

ビニール袋のロゴがヴィジュアル系バンドみたいでした。グッズ売り場でも妙にかっこいいハトの後ろから後光がピカァみたいなデザインとかあって思わず笑いました。聖☆おにいさんみたいな。鳩「滅びよ!」

■同じく国立国際美術館にて、宮永愛子展がありました。
ナフタリンを用いているため、常温で昇華していくそうです。白い結晶が崩れていく一緒に見ていた人が「やったもん勝ちやな」と言っていたように、発想の勝利な部分もあるかもしれません。

写真撮影おkでした。



向こう側は繊維質のまま保たれていますが、手前は液体で濡れています。固体でも液体でもない、どっちつかずの質感。昇華するものを用いるって面白いです。
展覧会の題は「空中空(なかそら)」(片方の「空」の字は鏡文字で表記)でした。宮永氏は作品について考える際、鏡文字を用いるそうです。そうすると「文字の持つ意味にイメージが引っ張られるのを避けられ、文字が自由になり、イメージが膨らむ」とのこと。なかそら、というのは、あちらとこちらの間、あわいの世界のイメージだと受け取れました。このことが書かれている説明の紙が特殊で、片面がざらざら、もう片面がつるつるの半透明で、なるほどな、でした。半透明なので裏から見ても鏡文字が成立しました。
■さて午後、恩師の個展に行きました。
10年ほどかけて作品をため、ギャラリーを借りての個展でした。教師として仕事をしながらの制作であり、全て手で彫っているので、一作品に一年ほどかかるそうです。例えばアルバムCDのインタビューで、「アルバムとして一枚にまとめるとき、それまでに作った曲にはバラード系が無かったので新たに作りました」とか聞くのを思い出して訊ねてみたのですが、展覧会でひとつのイメージを表現するために作るというよりも、一作品ずつ向き合って作るそうです。以前にアルバムCDの考えで作ったが、その作品は後々になって愛せなくなってしまったとのことでした。

ギャラリー中央に設置された作品。先生は開口一番「お尻みたいだろ?」とw 個展の案内ハガキがこれで、第一印象がお尻だったので、やっぱりwと笑いました。さくらの樹を彫った後に染料で染めているそうです(顔料だとエッジが消えてしまう)。さくらの樹の材質が硬いからか、その色からか、昔オックスフォードで拾った油っぽい石に似ていました。触っていいよって言われたのでさすさすしましたが、お尻から背中のラインが良かったです(`・ω・´)

結構大きいので、両手でじっと掴むと大木のイメージが伝わってきます。説明を要約・抜粋すると、”見晴らしのいい高台で里山を眺める視線で自分の彫刻も見たい。力まず、厭きず、人々が土地を耕すように木を彫りたい。自らの作品が、吹く風のような存在よりも、気配を感じるものになって欲しい。人よりも大きな存在である自然、それを見て捉える、濾過し純度を高めてイメージとする。そういう、自然から受け取った本質をかたちにするプロセスにおいて、彫刻という手段は適している。”といったものでした。分かりやすい、刺激的な現代アートを認めない先生は、民芸がすごく好きなのでした。エナジードリンクのモンスターのmの字に似た作品は、山と川のイメージだそうです。
樹は空洞になってもその内部に生命を宿している、トトロを例に出して「要するに木の精霊ですわ、ははは」とか仰ってました。少し風のある日の海面のような、木肌に残ったノミの跡、ライトに照らされてゆっくりと曲線を描く姿は、制作にかかった時間を感じさせました。作った本人を知っているから尚更、ひとが作ったという実感がわきました。モランディの絵のように、作品の上に時間が堆積しているような印象です。

真ん中の青銅色の彫刻が一番古いものだそうです。
向かって右の作品は、合掌と十字架のイメージも含むそうです。

似てるって言ったら怒るだろうから言わないけど、と、別の先生が見せてくれた国立新美術館での「与えられた形象―辰野登恵子/柴田敏雄」展の図録の一ページ。二つのものがせめぎ合うさま。プロセスが違っても同じかたちに行き着くものなのかもしれません。
神戸の静かな一角の感じのいいギャラリーで、奥さんと息子さんと一緒に出迎えて下さった先生は、すごくリア充でした。個展って言ったら作家としてひとつの目標じゃないですか。おめでとうございます。最近は陶芸にハマっていて、でも納得いくものが出来なくて焼いたもの割って捨ててしまうらしいですが、いつかひとつくらいくれることを期待してます。