tete-a-tete

夕凪ショウの同人活動の他、行った場所や観た映画などの記録です。

「ヒトの見方」を読んでいます

養老孟司さんの「ヒトの見方」を、時々くすっと笑いながら読んでいます。
書かれていたこと、考えたこと、まぜこぜですが備忘録。

形態学者と化学者
形態学では肉眼で見えるものを扱うが、化学は肉眼で見えないものを扱う。例えば化学で扱う分子は不可視の存在であり、理論によって存在を推測せざるを得ない。一方で形態学ではまず対象がある。例えばトゲの生えた卵があり、そのトゲがなぜ生えているのか理論を探す。
見ること、あるものを受け入れるのはすんなりできる。でも化学は苦手。目に見えないものを筋道立てて考えるのは苦手/(^o^)\

ヒトの中枢神経系には、生きるための中枢(反射・呼吸)、たくましく生きるための中枢(本能・情動)、美しく生きるための中枢(情操・理解)がある(これは「イラスト解剖学」より引用)。ヒトの脳では他の動物と共通する部分に加えて、+αのものが生じている。そのためヒトでは本能が薄められている。余剰部分でヒトは象徴を扱い、共同幻想を抱くようになった。
ヒトの自己は幻想としての自己であり、ヒトの考える死は生物学的な死ではなく幻想としての自己の死、象徴としての死である。
身体=心に触れる線引きは社会・文化・個人の価値観によって定められている。コミュニケーションの基準を共同幻想で共有している。キスは挨拶のうちか、浮気はどこからか。

余剰
生物進化の上で最初の余剰は遺伝子の複製。DNAが一本鎖から二本鎖になった時に原核生物から真核生物に進化した。細胞が複製され、単細胞生物から多細胞生物に進化した。卵割も余剰を生む。
余剰は分化の前提となる。複数あって初めて、元のものを保存しつつ変化することができる。
フィギュアは保存用、観賞用、布教用のみっつ買えっていうのはこういうことだったのね!(・ヮ・*)
あと派生動画やMADやリミックスができるのもコピー可能だから、か。
余剰が多様性の条件となるが、それが必ずしも有用とは限らない。ヒトは前足に道具を持ったが、恐竜では余っている。

「生きもののデザイン」がおもしろそう。