tete-a-tete

夕凪ショウの同人活動の他、行った場所や観た映画などの記録です。

「DAISY」小説版

友人がノベライズしてくれました!
素晴らしい出来です、是非読んでみて下さい
感想などコメントしていただけると嬉しいです。


 Diva of A.I. Sings for You      永時矢内

寒風の吹く石畳。枯葉も舞う通りに青年は立っていました。

通りにはカフェや雑貨店も立ち並んでいますが、秋も終盤となったこの寒さのせいか、ほとんど人通りがありません。

「寒い…」

青年はあるお店の中から出てきたところです。そして暖かな店内に比べて、大変寒い通りだと思いました。青年が出てきたお店は楽器店でありました。

彼は孤独なピアノ弾きでした。

唯一の肉親だった妹も去年亡くなり、彼の周りには没落貴族だった両親が残したお屋敷と、そして妹の大好きだったピアノしかありません。

彼は、彼のピアノと一緒に歌ってくれる歌唱人形を探しています。けれど、お金のない彼には高価な歌唱人形を買うことができません。目の前にあるショーウィンドウの中に整然と並んでいる絢爛な楽器たち。それらに引けをとることなく端然としている金襴緞子のような歌唱人形を尻目に、彼は楽器店を後にしました。

落ち込む彼は、知らずのうちに今まで通ったことのない裏通りを歩いています。裏通りは先程の通りと比べて寂れていて、本当に誰もいません。高い高い空のもと、一人ぼっちの彼は、寒さがより身に染みてしまいます。彼一人だけがその通りの石畳に積もった枯葉を踏み鳴らしていました。

通りを半分程歩いていた時です。彼はそこに古道具屋を見つけました。古びた建物で、窓にもほとんどカーテンがかかっています。僅かに見える店内を覗いても、果たして店が開いているのかどうかさえ分かりません。しかし、青年は何か惹かれるものがあったのか、ドアノブに手をかけました。

「あ…開いた」

 入ってすぐに感じたのは埃の匂いでした。外と同様に寒々とした店内の空気は、澱みのようにその場に留まっています。青年は無意識に、息を詰めました。

 店内には大きな家具やランプ、本、時計、蓄音機などありとあらゆるものが雑然と並び、積み重ねられていました。まるで商店街をここにぎゅっと押し込めたようです。その中に、可憐な少女の人形もありました。目を閉じて座っているその人形に、青年はどこかで哀愁を覚えました。

「いらっしゃい」

 仄暗い店の奥から、声が聞こえました。

 よく見ると、白い髭と髪をし、丸い眼鏡をかけた老人が勘定台の中に座っています。

「見たところいいとこの坊っちゃんが、こんなところに珍しいな」その老人は言います。

「いえ…少し気になるものがあったもので。お店の方ですか?」

「そうだよ。もうここに店を出して三十年だ。最近では滅多に客は来ないがね。坊っちゃんは五日振りの来客だ」

「あそこにある人形は、歌唱人形でしょうか。どうしてここに」

「よく分かったな」店主は煙草を取り出しました。

「あれはどっかの貴族の館にあったんだが―――そいつらが首が回らなくなって夜逃げしたんだ。それで館の中のモンは全部売り払われたのさ。それが回り回って儂の店に売られた。どこかおかしなところがあるからと言っていたが…儂には分からん」

「それ、お幾らですか」

「忘れた。値札みてくれ」

 そばに寄って見てみると、店の外から見たよりもそれはそれは愛くるしい人形です。腰の辺りまである艶のある長いブロンドの髪にはヘッドドレスが、そして思わず触れたくなるようなふっくらとした唇。また、可愛らしい洋服も上等なものを丁寧に着せられていて、身体に傷もなく、前の所有者もこの人形を大切にしていたことが感じられて青年は嬉しくなりました。

 値札を見ると、青年にも買えない値段ではありません。彼はこれを買うことにしました。

「これ、下さい」

「おや、そんなに気に入ったかい。…それならお代はいいから連れて帰ってやってくれ」店主は吸い終わった煙草の火を消しながら、そう言いました。

 驚いたのは青年です。

「え? でもそんな、悪いです。きちんとお代は払わせて下さい」

「いや、いいんだ。その子見てるとね、こんなところでずっと居てもらうのは可哀想で仕方なくてな。どうせなら大事にしてくれるとこに行ったほうがいい。そう思わないかい、坊っちゃん

 そして笑いながらこう言ったのです。

「ま、邪魔にもなるしな」

 青年は人形の小さな手を取りました。その桜貝のような爪をした可愛らしい手は人形とは思えない程柔らかく、そしてなぜか青年には微かに温かく感じられました。すると、今まで閉じられていた目が、段々と開いていきます。

「君の名前は?」

青年は聞きます。

 人形は綺麗な言葉で答えます。

「名前は、ありません」「ですが、型番は“DAISY5.27”…です」

「そうか、じゃあデイジーって呼ぼう。僕は君の新しい主人だよ」

「はい、ご主人」

 そうして、青年とデイジーとの貧しいながら楽しい生活が始まりました。

      ♪

 

 毎日、青年のピアノに合わせてデイジーは歌います。

青年は時たま、デイジーに注文をします。

「ここはもう少し気楽に歌ってもらって構わないよ」

「それは“agiatamente”ですか? それとも“con scioltezza”ですか?」デイジーはまずこのように聞き返します。

「うーん、その半々くらいかな」

「ご主人は難しいことを言いますね」

 機械にとって、人間の指示する表現は大変難しいものなのです。

 数ヶ月も経つと、初めは表情に乏しかったデイジーも段々と笑うようになっていきました。その頃には、青年の曖昧な指示もきちんと把握し、青年の思った通りの歌を歌うことができるようになっていました。

 デイジーは、歌っている時以外はお屋敷の中の他の部屋で過ごします。お屋敷にはデイジーの知らないものが沢山あります。前の館でも色々なものを見ましたが、デイジーにとってはこのお屋敷の全てのものが新鮮です。

 デイジーの一番のお気に入りは書斎でした。そこには膨大な量の本がまるでデイジーが読むのを待っているかのように並んでいます。デイジーはそれらを読んで、まだ見ぬ世界に思いを馳せるのです。

 おっと、書斎は二番目のお気に入りでした。一番のお気に入りは、もちろん、青年のそばでした。

 デイジーは沢山の歌を青年から教わりました。楽しい曲、悲しい曲、嬉しい曲、寂しい曲…デイジーには感情というものがよく分かりません。機械に決められた感情の情報によって表情などを変えることは出来ますが、どうしてそうなるのかは分からないのです。

 青年は、デイジーと一緒に居る時を心から楽しいと思っていました。妹を失ったと同時に忘れ去っていた笑顔を思い出せたのも、ひとえにデイジーのお陰でありました。

 ある時には、デイジーの歌いたい歌を青年に伴奏してもらうこともありました。その歌は以前の持ち主が好きだった歌でした。それを歌っている途中、デイジーは身体のどこかが壊れたかのように感じました。それを青年に告げ、身体を隈なく見てもらってもどこにもおかしなところは見つかりませんでした。

「おかしいな、デイジー。特にどのパーツも壊れてないみたいだ」

「そう、ですか。ならよいのですが…さっきは何かがおかしかったのです、ご心配おかけしましたご主人」

 デイジーは「痛み」を知りません。

 またある時は、何度も練習した大曲を完全に歌いきったこともありました。もちろん二人とも大喜びです。青年は、デイジーの頭を優しく撫でました。

 その時、デイジーは今までに感じたことのない何か、機械では表現できない何かを感じました。しかし、それが何かデイジーには分かりません。

 デイジーは「恋心」を知りません。

 ピアノを弾く青年の横には、いつも写真立てが置かれています。ほんのりと色褪せたその写真には、少し子どもの頃の彼の写真、そしてその横には小さな可愛い女の子が写っています。

 その女の子と同じ服を、今、デイジーは着ています。

 その写真を見る青年の顔は、どこかもの寂しそうでした。

 

      ♪   

 

二人が出会ってから一年が過ぎた頃です。

その日は三日月の夜で、外ではあの時のように寒々とした風が吹いていました。もうすぐ冬がやってきます。

デイジーはふと、目を覚ましました。なぜだかお屋敷の中を歩いてみたくなり、部屋から出て廊下を歩きます。窓から射し込む月灯りは、ネグリジェを着たデイジーの白く美しい肌をどことなく妖艶に見せます。

ピアノのある部屋に近づいた時です。デイジーは、幽かなピアノの音を聞きました。その音は繊細で、どことなく弱々しい音でした。しかし、丁寧に丁寧に作られたその一音一音は、完全な球体を成し、夜の月灯りの流れの中を列となりゆっくりとこちらに転がってくるのです。

「ああ、ご主人の音だ」デイジーは安心すると同時に不思議に思います。青年は今までこのような時間にピアノを弾くことが無かったからです。

デイジーはそっと、部屋のドアを開けました。

青年はピアノを弾くのを止め、じっとデイジーを見つめます。その顔はいつものような笑顔ではなく、とてもとても悲しい顔をしていました。

やがて、青年はデイジーに向かって優しく言いました。

「デイジー、新しい歌を教えるよ。これはとても大切な歌だから、憶えていてほしい。けど、これは君の歌いたい時に歌ってほしいんだ。僕が言わなくても、ね」

 デイジーは青年から楽譜を手渡されました。いつもとは違う青年に、何と言っていいか分からなかったデイジーは、受け取った楽譜を見つめます。歌いたい時ってどんな時だろう。デイジーにはまだ分かりません。真新しい高級紙に書かれたその表紙には、一輪のヒナギクの花が描かれてありました―――――。

      ♪

 相変わらずの枯葉の吹き溜まった寂れた通りを青年は一人で歩いています。そう、ここはデイジーと出会ったあの古道具屋のある裏通りです。

あの夜の翌日から、冬は容赦なく街中に侵入してきました。空に昇っている太陽もあまり効果はないようです。ほんの少し前まではまだ木々にくっついていた色とりどりの葉っぱも全て落ち、その寂しそうな外観も、人々の感じる寒さに一層の拍車をかけます。

青年は、身に染みる風を受けながら、目的の扉を開け、中に入りました。

「いらっしゃい」

 あの時と同じように、埃の匂いがします。店内の商品は多少の入れ替わりはあるものの、ほとんど変わっていないようです。青年はそれらを懐かしく見ながら横を通り過ぎ、奥へと歩いて行きました。

「おや、あの時の坊ちゃんかい。もう来ないと思ってたよ」

 出迎えてくれた店主はどこか嬉しそうです。

「お久しぶりです」

「まあそこにでも座りな。ああ、適当にそこらの布で拭いてから座ったほうがいい。坊ちゃんのいい服が真っ白になっちまうからな。珈琲、飲むよな?」店主は既に準備をしながら訊ねました。

「あ、戴きます」

 青年は椅子に座りながら答えました。

 暫くして、机の上には年季の入ったカップが並びました。苦味を含んだ薫り高い珈琲の、なんとも良い香りが、湯気と共に立ち上がっています。それを一口啜った後、青年は煙草を取り出そうとしている店主に話しかけました。

「実は今日、お願いがあって来ました」

「あん、なんだい。あの人形を引き取ってくれ、とかだったらお断りだよ」

「いえ…実は、その通りです」

「おい、そいつはどういうことだい」店主は取り出しかけた煙草を箱の中に仕舞いました。その声は僅かに怒っています。

「正確には、僕が死んだ後に引き取って欲しいんです」青年は淡々と答えます。

「お前さんそれは…」

「もう僕は、先が長くありません。同じ病気だった妹は先に亡くなりました。僕は年齢が大きかったから、こうやって時期に差はありますが、いずれ。寧ろ今生きていることが不思議なくらいです」

 店主は黙ったままです。

「こうなることはあの時分かっていました。――本当に申し訳ありません。でも、あの子を一目見て、僕はどうしても、それが欲しくてたまらなかった」

「あと、ほんの少しの人生を、あの子と過ごすことができたらどんなに楽しいか、幸せかと思うと、」

「ここを通りすぎるわけにはいかなくて―――」

 埃を被った机の上に、温かいものがどこからともなく落ちました。

「お前さんは、本当に…あの人形が好きなんだな」

 店主は煙草に火を点けました。暫くの間、店主の煙草をふかす音と、青年の声にならない何かの音だけが、店内の煤けた壁に染み込みました。

「話は分かった。で、儂は何をしたらいい」煙草の火を消して少し経ってから店主は訊きました。

 落ち着いた青年はゆっくりと話します。

「僕が死んだ後、あの子をこちらに引き取って―――――完全に初期化してあげて下さい。今までのこと何もかも忘れて、また新しい買い手の元へ、もっと幸せに居られるところに、送り出してあげて下さい」

「……そうか、分かった」

「僕の身寄りは誰も居ないので、屋敷は当分の間はあのままになると思います。なので、いつでもよろしくお願いします」

「ああ」

「では、失礼します。無理なお願いを聞いて頂いてありがとうございました」

 青年は席を立ち、店の入口へと向かいます。扉に手をかけた時、店主が言いました。

「そうだ、一つ言うことを忘れとった。あの人形のおかしな所だがな、聞くところによると、どこかの機械の制限装置とかいうのが狂ってるらしい。儂には分からん話だが、つまるところ、あの人形は学習していって、どんどん人間らしくなるんだとよ」

 青年は笑って答えます。

「ええ、薄々気づいてました」

 扉を開けると、外は眩しいほどに輝いています。青年は一歩踏み出し、店主に向かって言いました。

「では」

そして、青年が出て行った古びた木の扉は、ゆっくりとゆっくりと小さな音をたてて閉まりました。

      ♪ 

「ご主人」

 今、デイジーはお屋敷で一人ぼっちです。

「まだ帰ってきませんね」

 一昨日、「屋敷できちんと留守番しておいてね」と言って外出したまま主人はまだ帰って来ていません。

 デイジーはまた書斎に向かいます。書斎の本はほとんど読んでしまいました。主人と一緒に読んだこともありました。デイジーは書斎にあるふかふかの椅子に座った主人の膝の上に座って一緒に本を読むことを、特に気に入っていました。

「まだこれはご主人と読んでないですね」

 そう言うと、その本を取り出して別のところに重ねます。そしてまた、読みかけの本を読み始めました。

 主人が外出してから五日が経ちました。まだ主人は帰って来ません。デイジーは、もしかしたらもう帰ってきているかもしれない、と思いました。そこで、お屋敷の中を見て回ることにしました。

「ご主人」

 食堂にやって来ました。主人の姿はありません。

 沢山の人々と食事が出来るように、食堂はとても広く作られています。主人がこの広い食堂で食事をするとき、デイジーはいつも一緒でした。いつも、食事をする主人を眺めていました。美味しいというのはどういうことだろう。毎日そう考えていました。

デイジーがお皿を運ぶ手伝いが出来るようになって、褒められたこともありました。

「ご主人」

 デイジーの部屋にやって来ました。主人の姿はありません。

 デイジーはいつもここで寝ます。ときたま、書斎で一人で眠ってしまうことがありました。そんな時は、主人がこっそりとここまで運んで、布団をかけてくれました。

お部屋には、洋服が沢山ありました。デイジーは、毎日違う洋服をその中から選んで着ます。なぜだか分かりませんが、同じ洋服を着ていたら主人から怒られたことがあったからです。もちろん、主人がいつ帰ってきてもいいように今でも違う洋服を着ています。

 他にも、沢山の部屋を回りました。しかし、どこに行っても主人と会うことは出来ませんでした。

 最後に来たのは、ピアノの置いてある部屋です。デイジーは入ろうとドアノブを回しました。しかし、いくら回しても扉が開きません。どうやら鍵が掛かっているようです。主人がここに隠れているかもしれない、そう考えましたが、いくら待ってもあのピアノの音が聞こえてくることはありませんでした。

デイジーは諦めてまた書斎へ戻りました。

 主人が外出してから一週間が経ちました。まだ主人は帰って来ません。あれから何度も部屋を回ってみましたが、主人に会うことは出来ませんでした。ピアノのある部屋も何度も行ってみましたが、扉が開くことはありませんでした。

「ご主人」

「―――歌を、歌わせてください」

 主人が居なくなってから、今日で二週間が経ちます。

 冬も本格的となり、今日は朝から雪が降り始めました。

デイジーはあれから、お屋敷の中を回って、書斎に戻って本を読むことが日課になっています。主人と一緒に読む予定の本は、もう机の上を覆うほど沢山積み上げられました。

 今日もピアノのある部屋へやってきました。やはり鍵が掛かったままです。

 デイジーはやっと、あることを思い出しました。

それは、お屋敷にやってきて何日か経った日のことでした。

 『デイジー、ここの部屋は鍵が掛かるようになってるんだ。でも君が来たから、いつでも使えるように開けておくよ。あ、でももし僕が間違えて鍵をかけてしまった時のために、合鍵を渡しておくよ。大事にしまっておいてね』

 そうです、デイジーは合鍵を持っています。その合鍵は、主人に言われた通り、大事に大事に書斎の机の引き出しの奥に仕舞い込んでいました。デイジーは急いで書斎に戻ります。そして、合鍵を見つけました。

ピアノのある部屋へ戻るデイジーの足は、自然と速くなっています。どうしてかデイジーにも分かりません。しかし、なぜだか早く行かないといけない気がしたのです。

 雪は、朝よりも沢山降り始めました。

 部屋の前に辿り着いたデイジーは、合鍵を鍵穴に差し込み、回します。カチリ、と音がして鍵が外れました。

 デイジーはゆっくりと扉を開けます。部屋の中に主人がいて、いつものようにピアノの前に座ってデイジーを待っている、そのような光景があると信じて。

 そこにはあの時のままの幸せな空間がありました。あの時のままの物が全て残っています。所々にシミのある壁、去年の冬から使っていない暖炉、骨董物のキャビネットヒナギクが生けられた花瓶、積み重ねられた楽譜とその古い紙の匂い、カバーが掛けられたピアノ、少し埃を被った写真立て、主人が座っていた椅子。全てあります。

ただ一つ、主人を除いて。

デイジーは、やっと、主人がもう居ないことに気づきました。

デイジーはふらふらとピアノの方に歩いて行きます。ピアノの上に一つだけ別に置かれた楽譜は、あのヒナギクの表紙の楽譜です。デイジーはそれを持って窓辺で佇みます。そして段々と雪の積もる窓から、外を眺めました。

 そうしながら、今まであったこと、何もかもを思い出したデイジーは、何が何だか分からなくなりました。とてもとてもおかしな感じです。どこか壊れたのだろうか、そう思いました。

 こんな時、歌ではどう言っていただろう。誰かがもう居なくなった時、みんなとても悲しみます。そう、これは「悲しい」という感情なのだろう。デイジーは、そう、思ったのです。

 デイジーはとてもとても悲しくて、どうにかなってしまいそうです。

そして、デイジーの頬を、何かが伝いました。

「ご主人」

「―――歌を、歌いたいです」

その手には、楽譜が握られています。主人が「大切な歌」と言っていた歌です。デイジーはそれをとても歌いたくなりました。歌いたい時に歌ってほしい、そう言っていた気がします。

「ご主人、私は、いつまでも歌います」

 そう言って、一人静かに歌い始めました。誰にも聞かれないデイジーの歌は、とても優しく、しかし悲しげに、そして愛おしくお屋敷の中を満たしていきます。

 それはまるで、レクイエムのようでした。

                        了