医療に関する倫理問題というトピックで、興味を持って調べたので書いておきます。
系統解剖では、御献体のお名前を始め、個人情報は明かされません。その身体は個別性を排除され、ヒトという種の一つとされます。
名前はなく身体はある。
人は二度死ぬ、という言葉がありますが、まず一度目に身体の死があってから、二度目に忘却による個人の消滅があるのが普通です。
二度目の忘却が済んだ状態で、一度目の死を終える途中でそこに留まる裸の身体。情報は隠される一方で身体はまるごと隠されない。
ひとには名前があります。名前があることは、その他大勢との区別がつく、個人が存在することと同義です。たいていの動物や実験器具に個別の名前はありません。
御献体は名前を伏せることで、個人から個体へと変化します。個人はかけがえのないものですが、科学では個体を一般化して普遍的な真実を求めます。それは学問には必須です。ただ、ひとが種の一個体として扱われるのは、対峙するひとに違和感を与えます。裸の身体が目の前にあればなおさらです。
ただ御献体の本名を開示すると、その他多くの問題が浮上します。名前は重要なもので、それひとつでその人の個人的な経歴へと容易にアクセスが可能です。
さてそこで、個別性を拭いとられたならば、個体性を再び与えればいいではないか、という考えがあります。
Dissecting cadavers: learning anatomy or a rite of passage?
この記事はかなり長いので抜粋しますと、
アメリカの医療学校では、御献体に名前を付けることがあるそうです。
失われがちな死の現実感をとどめ、死体に畏敬の念を抱き、人間性を認め、社会的なアイデンティティーをもたらす為に、生徒は御献体の年齢、医学的な経歴、死因などの情報を欲する。
御献体をリパーソナライズするために、その身体がかつて実際に生きていたものだと思い出す手掛かりとなるように、御献体に名前をつける。あるいは解剖実習から知れる身体的特徴を元に、御献体の経歴を推測し書き出す取り組みがあるようです。
私たちは情報と身体をもち、自己を自己、個人を個人と認識している訳ですが、それはどういうことなのでしょうか。